武芸八幡宮の成り立ち
養老元年(717年)泰澄大師が「大碓命」を祀ったのが始まりです。その後いつの頃からか、応神天皇を神として祀り今に至っています。観応二年(1251年)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が社殿を再興しました。第1鳥居から本殿までは約1300mもあり、その途中には地蔵堂や不動院、大聖寺などが数多く建てられています。また、この他にも武芸八幡宮には、樹高約38m、樹齢約千年の「大杉」や、「これより奥に進むには、馬や駕篭から降りて歩きなさい」という命令を下した標識である「下馬標」など、見どころがたくさんあります。
信長の面影を残す八幡宮
織田信長は、永禄十年(1567年)に稲葉山城(岐阜城)を攻略しました。さらに、人心を治め経済の繁栄を図るために楽市楽座を設けたり、寺社に禁制や安堵状を与えましたが、そのうちの一つが武芸八幡宮でした。信長はこの武芸八幡宮をとても大切にしていたと言います。というのも、この神社は、岐阜城からみると丑寅といって北東の方角に当たり、鬼門鎮護として重要な位置を占めていたからです。その後、信長の長男の信忠や三男の信孝もこの地に安堵状を送ったことからも、織田家にとってこの武芸八幡宮が如何に重要であったかが分かります。
花馬まつり
毎年、4月中旬(15日に近い日曜日)に行われます。笛太鼓の調べと共に、雅な神楽館と桜の造花で飾られた花馬が登場。その手綱が緩んだ途端、参道から祭り広場に花馬は駆け込みます。すると氏子や見物人が我先にと、この暴れる花馬の造花を奪い合うという、勇壮華麗な祭事です。この桜の造花を輪にして屋根に上げておくと、落雷防止や家運隆盛になると言い伝えられています。